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証言 No.14さんの場合

2016年7月 北海道に住むサハリン残留邦人にインタビュー。

  昭和17年(1942)長野県生まれ。父親はサハリンの灯台守になった。8人兄妹。3歳の時終戦。終戦直後、足を骨折した。数か月寝ていた。母は妊娠していた。日本人は帰ったけれど、帰れなかった。父は魚を加工する仕事をしていた。1953年パスポートを更新に大泊(70k離れていた)にスキーで行って来た。4年生11歳で敷香に引っ越した。16歳まで地元のロシア人学校に通った。貧乏な人には学校でオーバーや綿入れを支給してくれた。
8年生で学校は辞め、父親の電気技術見習に。その後40年間、日本に帰国するまで働いていた。
 昭和17年(1942)長野県生まれ。父親は青森の灯台守だった。私が3か月の時、サハリンの灯台守になった。8人兄妹。3歳の時終戦。サット村での記憶。学校があった。子供の時よく、爆弾が落ちる夢をみた。終戦直後、足を骨折した。数か月寝ていた。母は妊娠していた。日本人は帰ったけれど、帰れなかった。
ロシア人がやって来て、家をたくさん建てた。日本人は私たちだけだった。その後、朝鮮人をソ連が呼んで、家を建てた。
父は魚を加工する仕事をしていた。干物を作る仕事など手伝っていた。魚の油も売ったりした。冬は樽を作っていた。その後学校で小使いさんの仕事をして働いていた。1953年パスポートを更新に大泊(70k)にスキーで行って来た。帰ってきたら、「ここには住めない。引越しをしよう。」と。4年生11歳で敷香に引っ越した。一部屋のバラックに家族7人住むようになった。16歳まで地元のロシア人学校に通った。子供が大勢だったので貧しかった。貧乏な人には学校でオーバーや綿入れを支給してくれた。ソ連時代の学校は虐めは一つもなかった。多民族国家だから。5,6年生の時、海の氷の上にアザラシかトドがいて、真っ先に走って行って危ない思いをした。樽の板でスキーをしたこともある。数学はよかったが、歴史などは話せなかった。8年生で学校は辞め、父親の電気技術を見習った。その後40年間、日本に帰国するまで働いていた。27歳で結婚。2人の子供がいたが離婚した。子供は10歳と6歳。妻は樺太民族。ソ連では80パーセント離婚している。スターリン時代は思ってることは言えなかった。亡くなった時、「あなたたちのスターリンが亡くなった」と言ったら、「世界のスターリンだ」と、怒られた。ドイツの機会がいいと言ったら刑務所に入れられた。鮭1匹盗んで、シベリア送りになった人もいた。
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