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証言 No.32さん残留婦人

2016年11月 山形県に住む中国残留孤児にインタビュー。

​昭和6年生まれ。インタビュー時、85歳。

 昭和6年、山形生まれ。父親は百姓だった。家族は多く、10人兄弟。生まれたときには、もう嫁に行った姉が、2、3人いた。おじいちゃんはいなかったが、おばあちゃんはいた。満洲に行ったのは9歳だった。お父さんが先に行って、家族を呼びに来て、お母さん、お姉さん2人、弟と私でついて行った。太平山開拓団に入った。満州では小学校に通った。3年生に入った。遊んだり勉強したりした。14歳まで学校に行っていた。学校に行っている時、終戦になった。木のラジオで玉音放送を学校で聴いた。家に早く帰った。負けたかどうかは知らなかった。馬車に荷物を積んで通河(ツウカ)県に行った。船を使えず、しばらくそこにいた。松花江を渡って方正に行った。馬は捨てた。荷物もなくなった。風呂敷が新しかったので、中国人に盗られてしまった。小さいからついて歩くだけだった。お金もなくて何も買えないから、木の根っこや草など食べた。方正の学校には、あちこちの開拓団の人達が集まっていた。自分の部落の人と最初は一緒だったが、男は兵隊に取られて、ほとんどいない。じいちゃんばあちゃんと若い女の人と子供だった。めちゃくちゃで誰も助けることもできない。子供を川に投げたり、中国人にあげたりした。

 方正で、20歳過ぎて結婚したばかりの4番目の姉ちゃんが、5、6人の女性と一緒にソ連兵に連れて行かれて、2、3日で亡くなった。なんで亡くなったわかんね。帰ってこなかった。生きるので精いっぱいだった。食い物もないし。春までいた。そこで、父、母も死んだ。弟と2人になった。1月過ぎてから、部落の人が迎えに来て、「弟と一緒に貰う」と連れて行かれた。15歳になった時、そこの息子と結婚した。弟は9歳で、逃げたけれど、そこで肺炎になって死んだ。ハルピンにいた姉ちゃんが迎えの人をよこしたが、肺炎だった弟を置いて逃げられなかった。気持ちは親みたいになって、見捨てていけなかった。姉ちゃんは、終戦直後に日本に帰れた。

 結婚後の生活は大変だった。ばあちゃんがいて、その人が優しかった。大事にしてもらった。子供は5人生まれた。ずっと農業をやっていた。文革の時は、いじめられることもなかった。日中国交回復で、希望を持った。「里帰りしていい」と言われ、一時帰国した。一人できた。日本の印象はよかった。姉ちゃんが帰ってきたらいいと言ってくれた。永住帰国を希望したが、なかなか帰れなかった。永住帰国は自費だった。国の金を待っていてもなかなか帰れないからと、姉ちゃんがお金を送ってくれた。順番に子供を呼び寄せた。​日本に来て最初は、蔵王温泉の旅館の仕事をした。住み込みで2、3年働いた。金を送って、高校を卒業した次男を呼んだ。また働いてお金を貯めて、長女を呼び寄せた。生活保護は全くもらっていない。69歳までパン屋で働いた。日本語は少しわかったけれど、しゃべるのは最初大変だった。子供たちは簡単に覚えた。子供たちは中国で高校を出てから呼び寄せた。支援金も貰っていない。日本に来てよかったと思う。子供達もみんな呼び寄せて、幸せだと思う。

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