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(44)【台湾】90歳の現役日本語講師 <工事中>

2018年1月20日、台湾でインタビュー。友愛会の忘年会の後、お時間をいただき、インタビューさせていただきました。台湾でたぶん最高齢の現役日本語教師ではないかとの事です。

​ 私は今年90歳で、生まれたのは、1927(昭和2)年。台湾の新竹州(しんちくしゅう)の楊梅?ヤンメイ?という小さな町。ただ店があるだけで、周りはみんな農家。父は土地売買の仲介人、母は裁縫屋さん。私は6歳の時は、ミシンが踏めて、もう下着なんか縫えた。兄弟は5人で、兄が3人、私、妹1人そしてミシンも踏めた。

 1931(昭和6)年、6歳の時、満州事変。母が「泣くな、泣いたら兵隊さんが鉄砲持ってくるぞ。」って。鉄砲が何かわからなかった。

 1935(昭和10)年12歳のとき、新竹州の苗栗(ミョウリツ)というところで、大きな地震があった。余震がずっと続いて、苗栗にいた人達が楊梅?ヤンメイ?に疎開してきて、木の下にテント張って、何日間か過ごしていたのを覚えてる。

【公学校へ】

 小学校は公学校に入った。7歳の時、母から「中国語を勉強しなさい。」って言われ、中国語の塾に行った。それは漢学で、塾の先生が年寄りでね、髭を生やし、清朝の帽子をかぶってたので、怖くていつも逃げて、電信柱に隠れてた。それで、お腹すいて家へ帰ると、母から「習った事を暗記しなさい。」と言われたけど、私は暗記できなかったいから叩かれた。

私は「公学校に行いきたい。」って言ったけど、当時、公学校はまだ義務教育でなく、母は許さなかった。入学は4月1日で、隣近所の友だちが学校行くので、お母さんに「1銭ください。」って頼んだけど、母はくれないの。後から1銭もらって、急いで学校行ってやっと公学校に入れた。そして、ここを卒業できた。

公学校3年のとき、九州から女の先生が来て、担任の先生になった。その先生の宿舎に一緒に住む事になったけど、先生のお宅で、「焼き卵」や「カレーごはん」を食べた時、「どうして、こんなおいしいものが食べられるの。」って聞いたら、先生は、「美味しいものが食べたいなら、あなたも将来、先生になりなさい。」って言われた。「はい、先生になります。」って約束しました。

 家族の中では台湾語、公学校で日本語を勉強してた。あの頃は、子供達は公学に行って、親たちやもっと上の年配の人たちは「講習所(こうしゅうじょ)」へ行って、簡単な日本語を勉強しましたよ。「天照大神」「こんにちは」「さようなら」とか。あるいは、日本語の「はさみ」は台湾語で「チェンチェン(=はさみ)」って言うとか、そういう勉強した。

【家政女学校へ】

 公学校を卒業して女学校に入りました。あの頃は、日本の子供達は、中学校か女学校へ進学しますが、台湾の女の子たちは、3年の家政女学校か、4年の女学校へ進みます。公学校6年卒業の頃、担任の先生から、「台湾人のあなたたちは、女学校より家政女学校行け。」って言われ、それで家政女学校に入った。

終戦の4、5年前に、やっと家政女学校ができ、台湾の女の子たちはそこに行った。台湾の金持ちの娘たちは、台北第三高等女学校(タイペイダイサンコウトウジョガッコウ)とか私立の静修高等女学校(セイシュウコウトウジョガッコウ)に勉強に行った。普通の、一般の女の子は、家政の勉強をした。料理、裁縫、礼儀とかね。結婚したら「良妻賢母」になれって。そういう教育だった。生徒達の大部分は学校の先生になった。あの頃、そろばんを練習し、そろばんの1級、2級、3級受かった人たちは、鉄道部とか銀行に就職、後の大部分は学校の先生。というのは、戦時中だから、男の方はみんな出征している。学校の先生が足りないから、家政女学校卒業したら、私も含めてみんな学校の先生になった。《続きは、近刊『WWⅡ 50人の奇跡の証言集(仮題)』》

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