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証言 Fさん残留婦人

2013年7月から12月まで。長野県・埼玉県・神奈川県・東京都在住の中国残留孤児・中国残留婦人・中国残留邦人へのインタビューです。

昭和7年生まれ。インタビュー時81歳。埼玉生まれ。8歳の時、満蒙開拓団で、両親と兄と渡満。最初の半年は共同生活。その後、中国の村に入って一緒に畑をやった。終戦時13歳。45歳くらいで永住帰国。

ある日、馬に乗った人が、「日本が負けたので早く帰れ」と。それから逃避行。1ヶ月か2ヶ月。同郷の老人を道ばたに置いてきた。オオカミが人間の肉を食べていた。祖父母も置いてきた。食べるものもなくなった。寧安から山道を歩いて、、、。乳児は亡くなった。半分以上亡くなって奉天に着いた。そこの収容所(学校)では沢山の人が亡くなった。母親も亡くなった。父親も兄も亡くなった。小さい子は中国人に貰われていった。自分も。あの時の日本人は人間じゃないようだった。朝起きると毎日のように荷馬車に材木のように死体が積まれて、穴を掘って捨てられた。貰われた(たぶん売られた)家では、叩かれたりもした。子守をしたり掃除をしたり。中国語ができなくて「これが包丁だ!わかったか!」と包丁をのど元に突きつけられたこともあった。泣きながら覚えた。その後、16歳くらいの時、20歳くらい年上の人の所にまた売られた。3歳、5歳違いの子どもがいた。泣きながらそこで生きてきた。中国語ができず、馬鹿にされて生きてきた。2年経って子どもができ、全部で6人子どもができた。豚の世話をして子どもの世話をして夢中で生きてきた。生活がやっとだった。近くに日本人はいたが、なかなか会わせてもらえなかった。

一時帰国の時は、話ができずただ泣くだけだった。泣きながら夢中で生きてきた。身元引受人は村でやってくれた。子ども達の帰国手続きも村でやってくれた。仕事も探してくれた。

日本に来てからは、工場や布団屋さんで働いた。子ども達は日本語で苦労した。工場の仕事は同じ仕事なので言葉がなくても大丈夫。

 

  
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