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アーカイブス 中国残留孤児・残留婦人の証言
【ライフヒストリー全体を通して、書籍と動画、二つの媒体で証言を残す試み】
(3)満州女塾 安子さんの場合
昭和18年6月、満州女塾に志願して、四国からは総勢15名で出発した。ハルピンから牡丹江、やっと大平原の中にある三豊開拓団の本部に着いた。午前中は女塾生としての本分を勉強し、午後はカマを持って農作業をした。ホームシックにかかるものもいた。満州ではトンコン病といった。帰りたい気持ちが募って原因不明の熱を出した。
8月11日、国の幹部が部落より集まって、「満拓より避難命令が出ている。もうそこまでソ連兵が来ている」と。12日、早朝牡丹江を目指して出発。雨の日、風の日、避難の列についていくのが精いっぱい。道なき道を歩いて山越えする時は、頭上からバリバリと戦闘機の機銃掃射に会い、亡くなった人も多い。小さい子供を連れた婦人は逃げるに逃げられず、満人に嫁いだ人もいて、経験した人でなければ理解してもらえないと思う。そうやってハルピンから東京(トンキン)城まで行った。収容所では僅かなコーリャンのお粥が一日に1杯、あるかないか。人が捨てたものを拾って食べた。あちこちで人が死んだ。どうすることもできなかった。
ソ連兵から逃れ、口では言えない苦労をしているうちに、21年6月、日本に帰れるという噂が流れ、葫蘆島に向かった。船員はソ連兵ではないかという噂が流れ不安になったが、港に着くと日本人でホッとした。乞食の格好で故郷に戻った。
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