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証言 Sさんの場合

2013年7月から12月まで。長野県・埼玉県の中国残留孤児・中国残留婦人・中国残留邦人へのインタビューです。

1931年生まれ。インタビュー時、82歳。1940年10歳の時、渡満。1945年4月、父親召集。1975年、永住帰国。

10歳の時、家族5人で満州に渡った。父は人力車の車夫だった。下関から船で韓国経由で満州に行った。家は長屋になっていた。父親は橋を作る仕事をしていた。母は農業。小学校は人数が少なかった。そのうちひと家族に1軒、家が建った。11歳で馬や牛を使って、畑を耕していた。父親は炭焼きや農業をしていた。終戦の年の4月に父親は根こそぎ動員で招集された。14歳で終戦。終戦後、開拓団員は皆学校に集まった。1軒に1丁、鉄砲があった。開拓団員が100人くらい自決した。1年そこにいた。200人以上いた。ソ連兵を、「撃たなんでよかった」撃ったら大事になっていた。ソ連兵が女性を二人連れて行った。それから方正にみんなで行った。

 終戦時11歳。中国人は本部から物を取っていった。逃避行途中、松花江で、開拓団の多く(2、30人)が入水自殺した。おばさんともはぐれ、皆について行った。畑に入ってとうもろこしなど食べた。9月末、ノウカチンの大きな倉庫にみんなで集まって住んでいた。毎日中国人の家に、食べ物を貰いに行って食いつないだ。12月、養父母は女の子を欲しがって収容所に貰いに来たが、少し健康そうな私を連れて行ってくれた。うどんを一杯食べさせて貰った。子供がいない家庭だった。養父母は優しかった。私もできる仕事は精一杯やった。養父母も喜んでくれた。農村の小学校に行かせてもらった。2年間で4年間の小学校課程を卒業。52年3月頃、機械の専門学校(黒竜江省)へ入学する。3年のところ2年で卒業。ハルピン市で約6年間働く。日本人なので、この仕事はダメ!と言われ(軍の仕事だったので)、違う工場に。1957年23歳の時結婚。58年長男、60年に次男、63年長女、69年三男生まれる。文化大革命、日本人なので、28歳の時ハルピンの地方の工場へ移動させられる。結婚後は養父への仕送りを欠かさずしていた。

日中国交回復の後、日本に帰りたかったが、実家がわからなかった。近くにいた日本人と話し、帰国した開拓団の人に手紙を書いた。養母が私の名前を(反対に)覚えていた。日本にいる元開拓団で一緒だった人が自分のことを覚えていてくれた。1985年50歳の時、一時帰国。実母、元開拓団の知り合いにも会えた。家族5人で里帰り。富士山も見に行った。日本はいい、と思った。1987年、52歳で永住帰国。生年月日が間違っていて直す手続きに1年かかり、待たされた。2年後、妻も呼び寄せた。工場で13年間働いた。毎日残業し家を建てた。その後もアルバイトを続けた。言葉の問題が一番大変だった。生活保護は一時帰国の半年間だけだった。厚生年金と労災年金で支援金はもらっていない。子ども達は仕事がないのが一番の心配事。

 

 

  

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