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証言 サさん残留婦人

2015年4月から5月撮影。高知県、香川県の中国残留孤児と満蒙開拓青少年義勇軍、満州女塾(大陸の花嫁)早期帰国者へのインタビューです。

 昭和7年生まれ。インタビュー時82歳。8歳で渡満。千振小学校に通う。中国人の家も土地も奪って暮らした。そこの開拓団は北海道や色々なところから来ていた。学校もあり通った。子供の頃、氷の上で滑って遊んで転んだキズが今もある。女子は縫物、男子は突き槍の練習をした。米、コーリャン、大豆、タバコを作っていたので、放課後は手伝った。豊作で食べ物には困らなかった。父親は兵役を免れたが、兄は義勇軍に行った。終戦時13歳。村長が村人全員に避難命令。「手榴弾で殺して」と皆叫んだ。夫は兵隊で3人の子供がいる隣人が、自分の子供を首を絞めて殺した。毒薬を飲んで死んだ人もいる。姉は日本人と結婚し子供が1人いたが、コーリャン畑に行って10人くらいの村人と一緒に集団自決した。姉婿は兵隊でいなかったがこっそり帰って来ていた。
 全員で平安屯学校に。夕方から逃避行が始まる。山道では鉄砲が飛んでくる。中国人が鎌で襲ってくる。怖かった。よく生きていた。その後、新京についた。関東軍兵舎に1か月くらい滞在。ソ連兵が外にいて怖かった。それから瀋陽に向かう貨物列車にソ連兵が入り込んできて、懐中電灯で一人ずつ手を照らして見て、男女を見分け、人目も気にせず女性をレイプした。
 瀋陽の収容所では飢餓と病気で父親も弟も亡くなった。配給されるまずいコーリャンを鉄兜で炊いて食べた。トウモロコシの餅を食べたいと妹が泣いた。思い出しても辛い。冬までいた。
 ちょっと日本語の分かる中国人に19歳の姉と私は引き取られた。遠くまで馬車で連れて行かれた。5人の息子がいた。日本は負けて何も反抗することはできなかった。19歳の姉は40歳の男性の嫁になるために連れてこられた。 
 少し元気になったら、二人で吹雪の朝、3時に逃げ出した。途中で「もうだめだ」姉は私を抱えて凍死した。私も意識不明で、中国人に助けられた。目が覚めたら姉がいなくて、大泣きした。その家は大家族で私を養う余裕がなかったので、村人が次々私を見に来た。そして、養父に引き取られた。
 大事にしてくれた。家の仕事を手伝い18歳になって村の男性と結婚した。主人は村の幹部だったので、いじめられなかった。
 昭和63年頃、外事課の人が田舎まで来てくれて、一時帰国できることを教えてくれた。一人で来た。代々木のオリンピックセンターまで兄、姪が会いに来てくれた。50年ぶりなのに、日本語ができなくて悔しかった。何も話すことができなかった。
 
平成1年に夫は他界。平成2年、60歳で永住帰国を果たす。
何があっても「命だけ残しなさい」
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